・死人がいないのでお仏壇は要らないのですが…
・お仏壇には誰がいますか
・どんなお仏壇が良いですか
・お仏壇を買ったので「お魂入れ」して下さい
・お仏壇の仏具は何が必要ですか
・浄土真宗では「位牌」はもちいないのですか
・ロウソクをつけるのはなぜですか
・「造花」をお供えしたらダメですか
・お花(お仏花)はご本尊に向けなくてもよいのでしょうか
・お焼香をする(お線香を焚く)のはなぜですか
・食べ物は何をお供えしたらよいですか
・彼岸(ひがん)とはなんですか
・お彼岸にはお墓参りをすればいいのですか
・永代経(えいたいきょう)法要とはなんですか
・降誕会(宗祖降誕会)法要とはなんですか
・合掌にはどんな意味がありますか
・念珠(数珠または珠数)は必要ですか
お仏壇とは字のごとく、仏さまがいらっしゃる『壇』のことです。
仏さまとは、浄土真宗の場合、特に断りがなければ阿弥陀仏(あみだぶつ)をさします。いのち(寿命)とひかり(光明)が限りない(無量である)というのが「阿弥陀」の意味。「仏」は永遠普遍の真理を表します。つまり、阿弥陀という真理・真実を表す仏さまがおられる場所がお仏壇というわけです。
よく勘違いされるのは、「家族の誰かが 亡くなって初めてお仏壇が必要になる」と思われることです。
しかし、真実を仰ぐのは生きている私たちです。いろいろななやみを抱え、悲しみや怒りに心乱す私たちに、真実の安らぎを与えようとされているのが仏さまです。その仏さまに、『私』が出遇う場がお仏壇なのです。
もちろん、お仏壇を通して亡き人に遇うこともできます。
現に、家族の死という悲しみを縁としてお仏壇を求められる方が多いのも事実でしょう。しかし、だからと言って、お仏壇は「亡き人が入られるところ」と決めつけてしまうと、本来の意味がわからなくなる恐れがあります。
お仏壇は、実体としての亡き人(の霊魂)が「入るところ」なのではなくて、亡き人の『尊さや真実心に触れるところ』と言えばよいでしょうか。
また、亡き人の『願いを聞く場』でもありますし、『仏となって、つねに私を見守ってくださる亡き人の心に出遇う場』でもあります。つまり、亡き人も私も、ともに仏さまに包まれ、心の温もりを味あわせていただく場がお仏壇なのです。
ですから、亡き人を偲ぼうとする方も、家族の皆が心通わすことが大切だと思われた方も、1人住まいの方も、長男であろうが、末っ子 であろうが、人間、どんなスタイルであっても、生きる依りどころとなってくださる仏さまをお迎えするために、まずはお仏壇を自分た ちの生活空間に置いてください。
(出典:本願寺出版社「新・仏事のイロハ」末本弘然著)
写真のような、高さ24cm×幅30cm(開いた状態)×奥行9cmの小さなお仏壇(いちょう・絵像)もあります。どなたでも、本山(京都・西本願寺)からお迎えすることができますので、お気軽にご相談ください。わが家も結婚時に、鹿児島の父よりいただきました。
浄土真宗のお仏壇は、ご本尊である阿弥陀如来様をご安置する所で、先祖をおまつりするためのものではないのですが、ある方からこのような質問を受けました。
「これまで、お仏壇にはご先祖が入っておられるとばかり思い、ご先祖に感謝の念を込めて手を合わせていました。確かに阿弥陀様も大事ですが、ご先祖も大切に思っています。お仏壇が『先祖をまつる所ではない』としたら、いったいご先祖はどこにおられるのですか?」と。
先祖思いの方なのですが、どうも阿弥陀様とご先祖を対照的に別々の存在として捉えてしまっているようです。「先祖をまつる所ではない」と言ったのは、ご先祖を実体的に捉え、例えば『霊魂のようなものがお仏壇に入っていて、しかもその霊魂は生前の我執(がしゅう)に基づく意思や感情を抱いたまま存在し、生きている者がそうしたご先祖の霊を畏敬し慰めるためにまつる』というのではない、ということです。
そもそも、『固定的な実体としての霊魂を否定するのが仏教』なのです。
それでは、ご先祖はどうなったのかというと、阿弥陀さまのお浄土に還(かえ)られ、阿弥陀さまと同じ仏さまになられたと味わうのです。
お浄土は本来、色も形もない真実そのものの世界であり、我々のはからいを超えた世界でありますが、それを何とか形に表そうとしたのがお仏壇の造りだと言われております。したがってお仏壇では、ご先祖を拝むというよりは、ご先祖が還られたお浄土を偲び、ご先祖をお救い下さった阿弥陀如来のご本願のお心を味あわせていただくのです。
さらに、ご先祖の願いを聞くと、何も「自分に手を合わせてくれ」とは思っておられないでしょう。むしろ、「真実の親である如来さまのご本願を信じ、力強い人生を歩んでくれ」と願われています。そうしたご先祖の願いを聞き、阿弥陀さまに心から手を合わすことが、すなわちご先祖を敬い、感謝することになるのです。
(参考:本願寺出版社「仏事のイロハ」末本弘然著)
お仏壇を求められる時には、まず、『どの部屋のどの場所に置くか』という安置場所と、だいたいの予算を頭に入れておく必要があるでしょう。そして仏壇店に行くその前に、お手次のお寺で、お仏壇を購入する際の注意点なり、どの仏壇店に行けばよいかなどを聞かれるとよいでしょう。
仏壇店では、必ず宗派名(浄土真宗本願寺派または西本願寺)をはっきり告げて下さい。というのも、お仏壇は自らの信奉する宗派のご本尊に入っていただく『家』であるわけですから、お迎えするご本尊にふさわしいお仏壇でなければならないからです。お飾りの仏具等もきちんと定められていますので、宗派名を告げる必要があるわけです。
お仏壇は主に「金仏壇」と「唐木仏壇」の2種がありますが、浄土真宗ではお浄土を表現するところから、「金仏壇」が伝統的に用いられてきました。予算が合えば金仏壇をおすすめします。浄土真宗のご本尊は縦長ですので、「唐木仏壇」の場合はご安置するスペースを確認する必要があります。
また三具足(ローソク立て・香炉・花瓶)などの仏具も真宗浄土本願寺派のものを使い、必要のない茶湯器や位牌は購入しないようにします。
こうしてお仏壇が決まれば、いよいよご本尊をお迎えします。ご本尊は仏壇店で求めるのではなく、本山からお受けします。その旨を仏壇店に告げ、同時に購入したお仏壇に合うご本尊の大きさを尋ねます。ご本尊の大きさは〝三十代″とか〝五十代″とかいうように〝代(だい)″で表します。
お仏壇は元来、ご本尊のこうした大きさに合わせて造られてあるもので、〝三十代のお仏壇″というように言い、「これは〝三十代のご本尊″用のお仏壇だ」ということです。
「お仏壇を買いましたから魂を入れて下さい」…こんな依頼を受けることがあります。俗に“お魂入れ”とか“お性根入れ”とか言われるものです。また、古くなったお仏壇を修理(お洗濯)に出す時や処分する時にも同様に“お魂ぬき”“お性根ぬき”という表現がよく使われます。
しかし、依頼された僧侶の方は、実はこういう表現にはいつもひっかかるものがあるのです。お気持ちはわかりますが、だいいち、お仏壇自体に魂を入れたり出したりそんな器用なまねはできるはずもないのですから。
浄土真宗では、お仏壇に新しくご本尊をお迎えする時の法要を『入仏(にゅうぶつ)法要』と言います。 “入仏”といっても、仏さまに魂を入れるのではありません。迷いや欲に満ちた我々凡夫を救おうと、形に表れて下さった阿弥陀仏にお仏壇に入っていただくのです。
「お仏壇を買った」というのは、どういうことでしょうか。それは、ご本尊である阿弥陀さまをご安置するためです。
つまり、お仏壇という“家”は、阿弥陀さまという“ご主人”をお迎えするために用意されるということです。したがって『入仏法要』とは仏さま(ご本尊)をお迎えしたことを慶び、そのお徳を讃える法要です。
また『お紐解き』という言い方もあります。これは、本山(西本願寺)からお受けしたご本尊のお軸の紐を解いて、お仏壇にお懸けするところからきています。
一方、すでにご本尊があって、古いお仏壇から新しいお仏壇にお移しする場合やお仏壇を修理に出す時など、ご本尊を別の場所にお移しする場合は、『遷座(遷仏)法要』(せんざ(せんぶつ)ほうよう)と言います。また、お移りいただくのですから、『お移徒(おわたまし)』とも呼ばれます。
せっかく新しいお仏壇を求めても、出発点から“心得違い”をしていてはいけません。「仏さまに魂を入れよう」としかねない私だからこそ、仏さまをお迎えし、真実のお心をつねに仰がねばならないのです。
(参考:本願寺出版社「仏事のイロハ」末本弘然著)
お荘厳(おしょうごん)の仕方、つまりお仏壇の中の仏具の配置があいまいなまま自己流でされている方が意外に多いようです。
お荘厳の主旨は阿弥陀如来の真実(まこと)心を、形を通して味わうことにあります。美しくお飾りすることにより、如来さまののお心に触れさせていただきましょう。お荘厳の対象をくれぐれも間違わないようにしましょう。
お飾りの基本は「香(お香)・花(おはな)・灯(ろうそく)」の『三具足(みつぐそく)』です。
前卓(まえじょく)と言われる卓(つくえ)に置く、中央の香炉、向かって右側のロウソク立て、左側の花瓶の3つの仏具をいいます。このうち香炉は、通常、手前に土香炉を置き、その奥に香炉台を置いて金香炉を載せます。
土香炉は口が広いので、お線香を折って寝かせる浄土真宗の作法に適しています。
土、金の両香炉を前後に並べて置けない場合ですが、普段線香を焚かれる方が多いと思いますので、土香炉を置いてください。金香炉は法事など改まった時に、中に火種を入れて焼香に用います。ただ、大勢の方が焼香し、金香炉では小さい時には土香炉を代用してください。
この三具足の位置がきちんと定まると、お仏壇もすっきりしてきます。また、お仏壇が小型の場合、中段に三具足を置くとご本尊が隠れたり、ローソクの火が他に燃え移る恐れがあるものもあります。そんな場合、前卓ごと下段に置くか、前卓が固定式ならば、直接下段に置くのもやむを得ないでしょう。
その他、和讃卓(わさんじょく)、日常用いる勤行聖典、御文章(御文)箱、りん(鈴)、仏飯器等ありますので、わからない場合は、住職にご相談ください。
はい、もちいません。
位牌というのは、本来、中国の儒家で用いられたもので、故人の生存中の官位と姓名を書き記した牌(ふだ)のことです。そこには“神霊が宿る”と信じられており、やがて日本の祖先崇拝と結びつき、仏教にも転用されるようになったようですが、“霊の宿る所”という意識は仏教の教えとかけ離れたものです。
その間違った意識の延長線上に、「仏壇は死者をまつるところ」という誤った考えが生れたようです。位牌を故人と見たてて、生前好きだった食物を供えたり、喉がかわいてかわいそうだから…などとお水を供えるのも、こうした意識の表れです。
ひどい場合には、ご本尊がなく、位牌だけの“位牌壇”となっているところもあるようです。
浄土真宗で位牌をもちいないのは、こうした仏教にそぐわない霊魂観にもとづいたことと混同されてしまい、本来の大切な教えがないがしろにされることを避けるためです。
しかし、故人を偲ぶよすがが何もないわけではありません。“過去帳”や“法名軸”をお使いください。また、すでに位牌がある場合は、住職にご相談ください。
(参考:「わが家の仏教・仏事としきたり浄土真宗」西原祐治監修、「仏事のイロハ」末本弘然著)
ロウソクはお線香に火をつけるための道具ではありません。
“私”に向けてはたらきかけてくださっている、仏さまのお心の表れとして味わうのが、お仏壇のお飾りの意味ですので、ロウソクの火を点けるのは“私”ですが、灯った火は、仏さまのお徳として味わうことが大切です。
ロウソクの火(灯明)には2つの面があります。
1つは“光”です。
闇を明るく照らすために、如来さまの智慧を象徴すると言われています。心の奥底までも知りつくし、どろどろとした迷いの闇をくまなく照らして真実に向かわしめる智慧の光明です。
もう1つは“熱”です。
仏さまの慈悲を表すと味あわせていただくことができます。熱が氷を解かすように、大いなる慈悲の“温もり”が私の固く閉ざされた心を解きほぐしてくださいます。そしてその炎からは、休むことなくはたら続けてくださる仏さまのお慈悲のお心も伝わってくるでしょう。
そのようなお心に気づかされた時、ロウソクを消す時は、口で吹くことはできませんね。芯切箸や芯切ばさみで挟み消すか、専用のふたをかぶせて消しましょう。
(参考:本願寺出版社「新・仏事のイロハ」末本弘然著)
お荘厳(お仏壇のお飾り)とは、阿弥陀如来の真実(まこと)こころを、お仏壇やご絵像・木像の目に見える形にして味あわせていただくことにあります。
“私がお供えしたお花”はそのまま、“私に注がれている如来さまのお心を表している”と味あわせていただきます。ですから、お花はご本尊のほうを向かずに、私のほうに向けられているのです。
阿弥陀如来は『無量寿如来(むりょうじゅにょらい)』とも申され、はかりなきいのちの仏さまです。
精一杯美しく咲いている花と、その花が色褪せ朽ちてゆくことすべてを包み、生かし育んで下さる如来さまのおはたらきに触れさせていただきましょう。そして素直な気持ちになって如来さまのお慈悲を味あわせていただきましょう。
以上のことから、“造花”は避けましょう。“造花は人の作り出した造形美”です。それは“不確かなわたしの目”が判断する“美しさ”であり、“ほとけさまのまことのこころ”はありません。四季おりおりの生花を、感謝の心を込めてお供えしてください。悪臭や毒のある花やトゲのある花も避けて下さい。
お香は心身ともに落ち着かせてくれることから、古くから仏前に供えられていました。
お香の深いかおりをかぐことによって、“浄土”(煩悩のけがれを離れた清らかな世界・阿弥陀仏の浄土は、極楽浄土・安養浄土・安楽世界などともいう)を思い、そして、誰の鼻へと差別することなく誰にでも行きわたるお香の薫りから、阿弥陀さまの分けへだてなく注いでくださるお慈悲のお心を味あわせていただくためのものです。
日常的に使われる“線香”は、土香炉(どこうろ)と呼ばれる口の広い陶磁器製の香炉で燃やします。この際には、線香は立てずに、香炉の幅より短く折って横に寝かせます。
また、法事などの改まったときに使う”焼香”は、ふたの付いた金属製の金香炉(かなごうろ)を使います。こちらは火種を入れて使用します。
また、“回し香”など大勢の方が焼香する場合、金香炉では小さいので土香炉で代用し、その右側に香ごう(こうごう:刻んだお香を入れた容器のこと)を置きます。
お焼香のお香やお線香にはさまざまな種類がありますが、ご自分で「良いかおりだな」と感じるものを選んでください。
香炉を置く場所は、三具足としてロウソク立て・花瓶とともに、金・土両香炉を前後に並べて置くのが正式ですが、スペースがない場合は、焼香する場合のみ金香炉を前卓に置き、それ以外は土香炉をおきます。
なお、焼香の際、金香炉のフタは金香炉の左側に、香ごうのフタは香ゴウの右側の縁に掛けます。
お供え物(お供物)として1番大切なものはご飯(お仏飯:おぶっぱん)です。
しかし、仏さまやご先祖に「食べていただく」のではありません。
“お仏壇”とは、阿弥陀仏がお造りになられた、人間の思考を超えた、限りないひかりといのちの真実の世界(お浄土)を私たちの目に見える形にあらわして下さったものです。餓えも心配も不安も迷いもない、この上ない満ち足りた世界ですから、本来はわたしたちからして差し上げることなどなにひとつ必要のないところです。
ではなぜ供えるのか。
私たちは、食べ物=いのち をいただかなくては生きて行けません。
いのちは様々な関わり(ご縁)の中で育まれ、様々な死を迎えます。他のいのちを奪うことでしか生きられない私を自覚し、いのちが食卓に上るまでの人や自然の関わりを思い、今生かされている感謝の気持ちを思い起こさせて下さるのがお供えです。
忙しい毎日でしょうが、毎朝ごはんが炊けたらまずお仏壇にお供えしてください。お仏飯は毎朝のお勤めの前にお供えし、午前中には下げ、いただいて下さい。朝ごはんを炊かないご家庭ならば、ごはんを炊いた時で構いません。まずお仏飯としてお供えするよう心掛けて下さい。
なお、よそ様から頂いたものもまず先に仏さまにお供えする習慣をつけましょう。台やお盆に乗せ、仏壇の横か斜め前あたりにお供えしてもよいのです。仏さまからの“お下がり”としていただくところに、もののありがたさもしみついてくるのです。
(参考:本願寺出版社「浄土真宗 新 仏事のイロハ」末本弘然著)
浄土真宗では、布施を善根を積んで悟りに近づくための功徳とはせず、このような私をいつでもどこでもお念仏一つでお救い(成仏)くださる阿弥陀さまに感謝する『報謝』として捧げるものです。
※参考 インターネットを見ますと四十九日、一周忌などの法要では3万円~5万円ぐらいが相場となっているようです。
彼岸とは、サンスクリット語の「パーラミタ―」の訳語である(到彼岸:とうひがん)に由来するといわれています。この「パーラミタ―」という語は、漢字では「波羅蜜(多):ハラミツ(ハラミッタ)」と書きます。それはすべてのものの真実を見極める智慧を身につけることです。この智慧によって、仏教ではこの世界(此岸:しがん)からさとりの世界(彼岸:ひがん)へ到達することを説きます。
しかし、私たちは欲望や怒りなどによって苦しみ悩み傷つけあうため、さとりの世界に到達するための智慧を身につけることは容易ではありません。このような私たちを、阿弥陀如来はすでに見通され、私たちのために、さとりの世界である「浄土」を建立されました。そして智慧と慈悲のすべてを「南無阿弥陀仏:ナモアミダブツ」に込めて与えられ、この念仏一つで浄土へと導いてくださっています。浄土真宗では、彼岸とは阿弥陀如来の教えをいただいたものが生まれてゆく、さとりの世界である「浄土」のことです。
春・秋のお彼岸のときには、お寺で行われる法座や法要にお参りいただき、阿弥陀如来のおこころを聴聞して参りましょう。
(出典:「仏事Q&A 浄土真宗本願寺派」前田壽雄師著 国書刊行会発行)
お彼岸になると、本山(西本願寺)をはじめ全国のお寺で「彼岸会(ひがんえ)」が勤まります。お彼岸は、ご先祖の供養のためにお墓参りをするものと思われている方も多いようですが、それは本来の意味ではありません。「彼岸=あの世(迷いの世界)」ではありません。
「彼岸」とは、わたしたちの住む世界を「此岸(しがん)=迷いの世界」と言うのに対して、「さとり=真実・絶対的の智慧の世界」を表す言葉です。春秋年2回のお彼岸は、『到彼岸(トウヒガン)』の略です。「到彼岸=迷いの世界からさとりの世界へ至る道(仏道)の実践」を意味します。
お彼岸は、さとりの道を歩めるみ教えを聞きよろこぶ貴重な機会ですので、どうぞお寺にお参り下さい。
ご先祖様やあらゆるつながりの中で生かされていることに感謝させていただき、永代にわたってお寺で経典が読み伝えられることを〔永代経〕といいます。永代経の懇志こんし=お布施は、お寺が永代にわたって護持され、お念仏のみ教えがますますひろまるようにとのこころでお納めします。
親鸞聖人は1173年5月21日(陽暦)にご誕生されました。
降誕会は『親鸞聖人のお示しになったお念仏のみ教えを誤りなくいただき、信仰に生きるよろこびを新たにすることが大切であって、もし聖人のご誕生がなかったならばこのよろこびを知らざりしものをと、意義ある聖人のご出生を、深く奉祝慶讃する法要』(経谷芳隆師)です。
みなさまどうぞご参拝ください。
「合掌する」ということは、「自分を見つめ、他人への思いを巡らす」あるいは「感謝の気持ち」を表現する行為です。
「合掌」には必ず“頭を下げる”行為が続きます。仏さまの前で頭を下げる、「頭(こうべ)をたれる」ことを「礼拝(らいはい)」といいます。ですから、仏さまにお参りするには、まず合掌し、その姿勢のままで礼拝をすることになります。
座ってお仏壇に向かいますと、自分の目の高さよりほんの少し上の方に、仏さまのおられる蓮(はす)の台座があるようになっています。この高さは、手を合わせて頭を下げたとき、自分の頭を仏さまの足、または蓮台(れんだい)につけるということを意味しています。
これらは、インド古来の礼法に基づいているもので、人間の最も大切な頭を、最も汚れている足につけるという行為です。これは、最高の敬意を示すものですが、言葉を換えていうと、レベルが違うということを意味しています。人間同士ではこんなあいさつはしませんね。人間とはレベルが違う大いなるものに、文字通り「頭をたれる」行為が「合掌礼拝(がっしょうらいはい)」なのです。つまり、“仏”や“仏の世界”とは、人間のレベルを超えた大いなる存在であることを表しているのです。
(出典:本願寺出版「浄土真宗はじめの一歩」森田真円師・釈徹宗師著)
浄土真宗の合掌は、阿弥陀如来さまに対しての感謝の合掌です。このときに欠かせないのが“念珠(ねんじゅ)”です。
“数珠(珠数)” ともいいますが、浄土真宗では念珠といいます。おまじないやお守りではありません。阿弥陀如来さまに合掌礼拝する時の礼儀として用います。大切な法具ですから、粗末に扱わないように注意してください。例えば、投げたり床・畳の上に直接置いたりしないで下さいね。
【持ち方】
房を下にたらし、左手で持つようにします。
合掌の時は両手にかけ、親指で軽く押さえます。
※珠(たま)をこすり合わせて音を出したり、手のひらに握りしめたりはしません。
『御文章』は、本願寺の第8代宗主(そうしゅ)・蓮如上人(れんにょしょうにん)が、浄土真宗のみ教えをお手紙に著されたものです。蓮如上人が47歳~84歳までの38年間《1461(寛正2)年~1498(明応7)年》に書かれたものが現存し、その数二百数十種に及びます。
浄土真宗宗祖・親鸞聖人(しんらんしょうにん)《1173(承安3)年~1263(弘長2)年》が、当時の仏教学者に対し著された 『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)=教行信証(きょうぎょうしんしょう)』は難解な専門書でありました。
この内容を、一般の人々が「千のものを百に選び、百のものを十に選ばれ、十のものを一に、早く聞き分け『天正三年記』」られるようにと、仮名まじりの簡潔な表現にされ、お手紙を書き続けられました。更にこの中で特に大切なものを、第9代宗主・実如上人(じつにょしょうにん)が五帖(ごじょう)八十通にまとめられました。
これが、現在も浄土真宗のお勤めや法話の後に肝要(かんよう:最も大切なこと)として拝読されている『御文章』です。
…ちなみにこの『御文章』、福沢諭吉氏はいつも懐に持ち歩き、その生涯の愛読書であったといわれております。
(参考:「聖典セミナー 御文章」宇野行信師、「書いて味わう御文章」、「念仏者としての福沢諭吉」重松明久氏)
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